admin のすべての投稿

ブルンジの今

2011年統計でのブルンジの労働人口90%以上が農業に従事していると言われるなか、長期の内戦で農地は荒廃するばかりで、先の見えない食糧不足と経済弱体化など解決しなければいけない課題は山積み。隣国ルワンダとのあまりの差異に何とか解決の糸口が見いだせないかと考えるのは誰も同じようで、両国へ進出する日系企業も雲泥の差。細々と農業資材やコーヒー豆(殆どが高品質で知られるアラビカ豆)の輸入が唯一日本との関りと言え、当然に日本大使館も置かれていません。ようやく明るい兆しがさしかけているかに思える2007年東アフリカ共同体加盟で、周辺諸国との関係強化に乗り出しさらに2012年には貧困削減戦略文書が策定され、社会インフラ整備などで、日本も資金面での援助が始まっています。やっととの感はありますが、わずかでも明るい兆しが見えたなか、その道のりは長く険しいことに変わりはないようです。

四大文明の一つがエジプトから

アフリカ北部に位置する北アフリカと呼ばれる国々の一つエジプト。北アフリカは、よく言われる「サブサハラ」というサハラ砂漠以南の国以外と言い換えることもできるでしょう。世界史で一度は目にする古代エジプト文明発祥の地の同国について、歴史から経済までかいつまんでご紹介したいと思います。同国は、地中海を介してヨーロッパへ、紅海をはさんで中近東へ、という地形的には言わばアフリカの重要拠点であると共に、国土の90%がサハラ砂漠という自然環境の厳しい土地柄です。一方でナイル川という芳醇な恵みを受け昔から発展を続けてきた国でもあります。紀元前3000年頃の世界の4大文明の一つに数えられている「エジプト文明」は誰しも知るところでしょう。今でも観光資源となっているギザのピラミッドは紀元前2540年頃建造されたものと言われています。長期にわたり栄華をほしいままにしていた王朝は、紀元前525年アケメネス朝ペルシャに滅ぼされ、それ以降はマケドニア、ローマ帝国、オスマン(トルコ)帝国、イギリスと次々に支配が変わっていったとされています。実質的に独立国となったのが1953年で、当初は「エジプト共和国」という国名だったそうです。以後スエズ運河の国有化を強行に推し進め同国に莫大な通行料収入をもたらしたナセル政権。この強行策がきっかけでイスラエルやイギリス、フランス間でシナイ半島の領有権を巡るスエズ動乱へと発展していったと言われています。1970年サダト政権時代に現国名となり、イスラエルとの融和策も推し進められたようですが、1981年に起きた同大統領暗殺で、次期ムバラク大統領は前政権の外交方針は引き継ぎつつも独裁体制は堅持して2011年までの約30年間という長きにわたり政権を維持してきましたが、9月に予定されていた大統領選を待たずに同年2月国民の突き上げで辞任に追い込まれ、以降軍統治と民政が繰り返され現在に至っています。

政権交代の目まぐるしい中央アフリカ

政権交代がクーデターごとに行われるとう中部アフリカの「中央アフリカ(中央アフリカ共和国)」。面積623,000平方キロメートルで日本の2倍弱の国土をもち、まさにアフリカ大陸の中央に位置する国。人口467万人(2018年,世銀)、首都は南部コンゴ民主共和国との国境に近い「バンギ」。バンダ族,バヤ族,サラ族,ヤコマ族,サンゴ族,バカ族,ピグミー族他と多民族国家で、公用語がフランス語のほか、サンゴ語というフランス語と現地語ンバンディ語の混淆された言葉が公用語であり国語になっており、ほか部族語も使用されています。中部アフリカの傾向そのままに、キリスト教とイスラム教が中心で,他伝統的宗教が存在。小国の群雄割拠時代とされる19世紀半ばまでを経て、1894年フランス領ウバンギ・シャリとして成立。1910年一時フランス領赤道アフリカの一部となるも、1958年独立宣言するとともに共和国宣言がされ1960年独立。ダッコ初代大統領を選出、1966年クーデターでボカサ参謀総長(中佐)が大統領に就任。以降クーデターが起こる度に政権が交代するという歴史を繰り返しています。2012年イスラム系反政府勢力セレカによる諸都市が占拠され、翌2013年リーブルビル合意(政府・セレカ間停戦合意)が行われました。同年セレカが再度侵攻し、首都バンギを占拠。ボジゼ政権崩壊で,ジョトディア・セレカ指導者が大統領に就任。憲法無効化や内閣の総辞職、議会解散と矢継ぎ早に政権基盤を覆し、2014年ジョトディア大統領辞任で、サンバ・パンザ新大統領が選任される。同年セレカとキリスト教自警集団(アンチ・バラカ)が停戦に合意。2017年AU(アフリカ連合)総会で調停メカニズム「アフリカ・イニシアティブ」が設置され、2019年政府・14武装勢力間で和平合意署名に至り、度重なるクーデターによる政権交代も終止符が打たれるかに見えますが、1人当たりの国民総所得 (GNI)わずか480米ドル(51,840円)という貧困と紛争激化による100万人以上の国内外への避難民という深刻な世情はそう簡単に収まるとも思えません。

アフリカ農業の下支えが日本の念願

肥料は、アフリカへの進出に出遅れた日本にとって、起死回生となる可能性を秘めたものと考えられています。それは、既に中国で実証済みだったからでもあります。資源を背景に産業振興をもくろんでいるアフリカ諸国にとっては、日常の生活必需品ともいえる食料のほとんどを輸入に頼っていては、ひとたび輸入価格が引き上げられれば、物価高騰を招き自国の経済は破綻することは目に見えています。だとすれば、まずは食料確保のため農業に力を入れざるを得ません。そこに肥料という切り札が日本には残っていると考えられていたからです。今でこそ肥料の輸出量は下降気味ではありますが、農地の生産性向上に対する研究は続けられており、国際競争力はいまだ健在と考えられています。この技術を前面にして、出遅れたアフリカ進出を挽回しようとしているのです。一方で、輸出のため一層の技術向上が必要とあれば日本国内の農業へも好影響を与えるものと期待もされているからです。食料のほとんどを輸入に頼らざるを得ないのは日本も同様です。農業の復活は日本にとっても悲願と言えるでしょう。このようなアフリカへの進出という筋書きは、目先のことだけを考えていては、いずれ先が見えてきてしまいます。あくまで肥料をその糸口として、将来的にもアフリカの発展に寄与できるような施策が伴わないと長期的な展望は見えてきません。ご承知のように、アフリカは相変わらず武装勢力により国家掌握が続いている国もあり、決して進出も楽ではないでしょう。このような国内情勢不安も産業振興に根差した国内経済安定が得られれば、徐々に解消できるものと考えられています。もちろん一朝一夕でできる話ではありませんが、何らかのアクションを起こさなければ状況は何ら変わらないということも事実といえるでしょう。

「アフリカの奇跡」で見せた底力

いわゆる「中部アフリカ」と呼ばれるアフリカ大陸中央に位置する10か国。豊かな地下資源に恵まれながら、他のアフリカ諸国同様クーデターや内戦という政情不安が続き、なかなか経済成長や政治安定化が図れないでいる国々が多く存在しています。一方で「アフリカの奇跡」と言われるルワンダのような劇的な復興を遂げた国もあり、各国ともいかに長期的な経済政策のもといかに着実にそれも実行していくか真価の問われる状況が続いています。先進各国もその潜在能力は認めつつ、なかなか支援の糸口を見つけられていないというのが現状と言っていいのかもしれません。そんな中、明るい兆しとも言える具体的な動きが少しずつ広がっています。1981年発足したECCAS(中部アフリカ諸国経済共同体)。南部アフリカのアンゴラを加え11か国が加盟して、各国の情勢安定化と経済発展を図ろうという動きです。具体的活動として、2012年から続く反政府勢力の活発化による中央アフリカの国内政情悪化に対して、2013年外相閣僚級会議を行い、反政府勢力との話し合いの場を設けるといったことも行われました。あるいは、1996年から続いていたCFAフランという通貨を加盟する6か国がCEMAC(中部アフリカ経済通貨共同体)を設立し、経済と通貨という両面での相互協力関係構築を目指す動きも出てきています。他地域に比べ発展が遅れていたからこそ、逆にその反動で大きな反発力を秘めた国々が多いというのが中部アフリカ諸国の特徴であると言えるのかもしれません。

中国の海路交通確保の先には

中国の海路交通確保のための港建設への多額援助はよく知られたところですが、具体的にはパキスタンのグワダル港建設があり、既に運営権を獲得済みと伝えられています。この港からはバングラデシュのチッタゴン港やミャンマーのダーウェイ港を結ぶインド洋の海上交通の要が存在し、さらに西進していけばアフリカが見えてきます。既にその途中のケニアのラミュ港、モザンビークのベイラ港、タンザニアのダルエスサラーム港の3港の開発にも中国は手を挙げていると伝えられており、これらの港を結んでいけばアフリカ資源のメイン輸送路確保が完成し、海洋貿易での優位性確保という目論見のなか、最近では、一帯一路(一帯の陸路と一路の海路を合わせた中国が2014年に提唱した広域経済圏構想)で欧州間の陸路とともに海路の充実は中国にとって重要政策となっていると言われています。ちなみに、資源の内訳は、北アフリカ諸国の石油に始まり、中部~南部にかけては、金、銀、ダイヤからアルミ、マンガン、クロム、コバルト、鉄鉱石から木材に至るまで資金力に任せた資源確保が急ピッチで進められています。2009年発行の著書「アフリカを食い荒らす中国」という題名そのままという状況が続いていると言っていいのかもしれません。ただこのようなアフリカ向け戦略は実は最近になって急にというわけではありません。既に1990年代から始まっていたと言われています。例えば、1995年当時の江沢民国家主席のアフリカ6か国訪問に端を発し、1999年にはアフリカ戦略の基本方針を掲げ、2000年には、アフリカ45か国を招聘してのFOCAC(中国アフリカ協力フォーラム)開催や、2005年開催のCABC(中国アフリカビジネス協議会)には中国企業1万6000社が参加したと伝えられており、その蜜月関係は世界でも周知の事実と言えるのではないでしょうか。

算数教育と観光

アフリカ大陸の最南端「南アフリカ共和国」には、世界有数の美しい港町として知られる「ケープタウン」や、大自然に生きる野生動物サファリを楽しむことのできる「クルーガー国立公園」などが有名なのではないでしょうか。観光資源の多いこの国では、将来この国を背負う子供たちの教育にも注目が集まっているようです。南アフリカと聞けば、サッカーのワールドカップの記憶も新しいのではないでしょうか。当時の映像をみると、インフラやスタジアムの整備された発達しているイメージという印象を受け、豊かな生活が営まれていくように感じられるでしょう。しかし、実際には失業率が深刻な問題として挙げられているという状況にあるようです。このため、政府は資源依存の経済から脱するため、産業を多角化していくことを課題とした人材育成に取り組んでいるようです。特に、これからの世界で重要視される工学系の人材不足解消のため、算数教育に力を入れた教育支援プログラムが行われているそうです。その実現にはまず指導者を育成するところからスタートしなければならず、これまでアパルトヘイトの厳しい制限を受けていた地域などでは、まず「数の概念」というところから勉強を始めなければならないと言えるでしょう。生徒とともに教員に対しての算数指導が、この国の未来を作るスタート地点と言えるかもしれません。もちろん、中には数学を理解している教員もいるようですが、教員によって授業内容に差ができてしまうところから改善していくことで、全体的な向上を図るためには地道に取り組みを進めるという姿勢が見られるのではないでしょうか。指導員を指導する側との文化的な違いなどもあり、そういった部分を埋めながら南アフリカは変化へと歩み始めていると言えるでしょう。

「都会の原住民の遠吠え」サイトトップへ戻る